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中島らものエッセイで、一日一度は、人には天使が舞い降りると書いてあった。駅のキオスクで牛乳を売っているおばちゃんが些細ではあるが、優しい言葉をかけたり、あるいは、職場で仕事がうまくいったり、褒められたりすることだって、天使が舞い降りてきたというしかない。
果たして、僕には天使が舞い降りてきているのかといえば、わからないというのが正直な気持ちである。確かに、職場で些細なことで褒められたりすることもある。そうすると、天使が舞い降りてきたと考えるほかあるまい。 天使が舞い降りてくるというのは、劇的なものではなく、日常生活を送る上で、些細な事柄によって築いていくものだろう。その積み重ねが幸せと呼べるのではないのだろうか?少なくとも、僕はそう思っている。 幸せとは、アットホームなようなものではない。あれは、すべて幻想である。もっと、小さな幸せが転がっているはずだ。それを見落としているだけに過ぎない。僕自身も気づかないところで小さな幸せを見逃しているのかもしれない。 例えば、今日食べた弁当が美味しかったとか、晩御飯が美味しかったとか、成績がよくなったとか、どんな些細なことでも幸せを感じ取られる感受性を持っておかないと、小さな幸せが逃げてしまいそうである。 幸せとは、劇的なものではない。宝くじが当たったとか、急に大金が手にはいったとかは、本来の幸せではないと思う。それでも、当たった人にとっては、天使が舞い降りてきたというしかないのである。 負け犬の遠吠えではないが、いくら巨万の富を手に入れたとしても、心で感じ取られる幸せを見逃していては、心の充足感は得られない。たとえ、貧乏でも、小さな幸せを感じ取られる感受性を持っていれば、心の充足感は得られる。 もう一つ例をあげれば、女性にとってダイエットするということに関して、一喜一憂することがあるだろう。体重の変化に敏感な彼女たちは、無理なダイエットをして、理想の体重を得たとしても、心の充足感は得られない。もっと、痩せたいという気持ちになる。それならば、ダイエットを気にせずに、ご飯を食べていた方が、天使が舞い降りてくることが多い。だからこそ、天使が舞い降りてくるためには、無理をせずに、身の丈にあった生活を送りながら、小さな幸せを感じ取られる感受性を養っていきたいものである。
by yoshibou225
| 2015-01-06 06:40
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