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昨日のブログで書いた内容で、心配をしていただいたのが少人数ではあるけれど、有難かった。それでも、死が僕を包み込むように周りを固めている。人間、いつかは死が訪れるものだ。ただ、自ら選ぶのか、最後まで生き抜くのかの違いであって、その違いは、ごくわずかな差でしかない。
サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」で、こんな一節がある。それは、『未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点である。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある』 実に要点をついているじゃないか。僕は理想のために高貴な死を選ぼうとしているのか?それほど、僕には理想などは持ち合わせてはいないけれど。非常に含蓄のある言葉である。 「ライ麦畑でつかまえて」は、僕が精神的に疲弊した時に読む本である。屈折した少年の心象を描いた作品である。と同時に、僕が抱いている屈折した感情とリンクする。生きていたいけれど、迷惑ばかりかけている自分に対しての苛立ち、無性に襲ってくる孤独感。僕は、この世に必要ないんじゃないかと思っている自分。 そう思いながら、このクソッたれた世界にしがみついて生きている自分。どれをとっても、自己嫌悪の対象にしかならない。何もかもがインチキに見えて仕方がない。だから、僕は、自分というフィルターを通して世界を見るんだけれど、これもまたクソッたれた世界なんだな。 実際のところ、僕が狂っているのか、はたまた、世界が狂っているのか、判断がつきにくいところだね。だから、もう少しだけ生きてみようかとも思ったりもするけれど、絶望しか見えなかったら、僕は、理想のために高貴な死を選ぼうとするだろう。何が理想で高貴なのかは、僕にしか分からないからね。 この文章を読んで、僕が狂っていると思われても仕方がないけれど。実際のところ、正直な気持ちを書くと、こんな文章になるんだ。これを読んで気を悪くする人がいるだろう。それでも、書かないではいられなかった。もっと、書き足りないことがあるけれど、キリがないから、この辺で辞めておくよ。じゃあ。
by yoshibou225
| 2013-10-30 08:53
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